レ ミゼラブル(2019)感想

結構前に書いた文ですが投稿してみます。


去年から話題になっていたフランス映画、レ ミゼラブルをようやく見てきた。上映期間は3月下旬までと以前、映画館のサイトに書いてあったのでとりあえず間に合ってよかった。と思ったら4月上旬までに延びたみたい。思ったより反響が大きかったのかな。もっと多くの人に劇場で本作を見るチャンスが行き渡ると思うと嬉しい。面白いというと不謹慎に取られるような作品かもしれないけど、間違いなく面白かったから。

冒頭、少年たちがワールドカップを見にパリに行く場面から、後にこの物語が巻き込まれることになる大きなうねりが見え隠れしている。パリに向かう前、エムバペなど人気選手の活躍について語り合う少年たち。焼けるような太陽に照らされて笑いあう彼らの様子に反して、やたら揺れたり急に表情をアップしたりする映像は妙に不自然である。駅のホームで鳴らされるクラクションにすらビクついてしまうほどの緊張感がすでに画面から漂っている。その後もパリで試合をみて興奮する彼らをよそに重々しい音楽は徐々に大きくなっていく。ワールドカップ優勝に熱狂する市民たち。シャンゼリゼ通りに人が溢れ、その全員が異常な熱気に満たされる。本来輝かしい場面であるはずだが、とんでもなく不穏な映像と音楽を通して見ると恐怖すら湧いてくる。それが連想させるのは渋谷でワールドカップでの勝利に馬鹿騒ぎする若者たちなどではなくフランスの歴史の上で起こってきた数々の革命、暴動の暴力性であった。フランス革命を恐れ逃げようとした国王とその妻の首をはねた時もパリはこのような熱気に包まれていたのだろうか。ドイツの要求に反抗し世界初の共産主義政府であるパリコミューンを立ち上げた時もこのような止めようの無い勢いが市民を満たしていたのだろうか。当然、そこには正当な怒りも込められているはずなのだが、それらが狂気とも言える暴力に繋がり、時に市民たち自身をも苦しめることになったのもまた事実である。だが暴動は行くとこまで行く以外の止めようが無いし、追い込まれた民はそれ以外の手段を持っていない。その抑えきれない勢いを肌で感じさせてくるようなオープニングであった。これは暴動が起きるような要因、静かに爆発を待つ怒りと勢いがいまだにフランスの中で眠っていることの示唆なのか。またはこの先、映画上で起こることの前兆なのか。その両方であったことが段々と見えてくる。

主人公のステファンが初登場する場面もまた、起きていることそのままの印象を与えてこない。警官であるステファンが仕事仲間となる地元の警官二人に署まで送られるのだが、この二人が全く警官らしく見えないのである。正直、ステファンを含めた3人が何者なのかも初めはわからなかった。セリフでそれぞれの立場が明かされるまで、誰もそれらしい服装をしていないのもあり、ただ引っ越してきた男が地元の荒っぽい二人に案内されているように見える。なんなら柄が悪く見えるほどだ。新参者が地元の荒っぽいベテランに振り回され、最悪の一日を経験するという筋書きだけ聞くと、アントワン フークワ監督のトレーニングデイを連想してしまう。しかしトレーニングデイのデンゼル ワシントンのような強いカリスマ性をこの二人は持ち合わせていない。ただ権力と暴力を乱用することで移民が大多数の市民たちを抑えつけようとしているだけなのである。そんな行動にも限界がきて、ゴム弾を少年の顔面に打ち込んで大怪我を負わせてしまう。この場面以降の情けなさ、泥臭さが本作のリアルさを物語っている。ステファンも初めは彼らの行動に驚くだけなのだがこの場面を機に段々自分の信念を貫いて市民に向き合っていくことになる。そこが本作の好きなところの一つだ。主人公が主体的に動き、物語に関与していく。少しずつ展開の主導権が彼に移っていく様子がとてもスリリングだった。この3人を軸に置きながら、ゴム弾で撃たれる少年イッサ、ドローンでその様子を撮影してしまう孤独な少年バズ、街を仕切っている自称市長など個性的なキャラクターの視点も組み込まれ群像劇的な色合いも強い。元々バラバラだった人間たちの運命が突然重なり、地域に眠る暴力の火薬が発火するまで突っ走っていく様子はスパイク リー監督のdo the right thingにも通じるが個人的には本作の方が好きだった。do the right thingよりも一つ一つの展開の緊張感、娯楽性が際立っており、社会的問題を生々しく描いた映画でありながらエンターテイメントとしても十二分に楽しめたからだ。本作を面白かったと言いたくなるのはこの点があるからである。(もっともdo the right thingを作った当時のスパイク リーにはこの問題を娯楽化してはならないという意識もあったはずなので、それはそれで成功しているとは思う。わかりやすい娯楽性はなくてもそれ以上に時代の空気感を捉える力があの映画にはある。今見たら中学の時より好きになれるかも。また見直したい作品が増えてしまった!)

自分が特に気に入ったのはドローンで事件を目撃してしまうバズの視点だ。孤独な彼はドローンを使って気になる女子たちを盗撮したり、自分たちが住んでいる集合団地を空高くから眺めたりしている。ある種、神にも近いような視点でドローン操作に耽っている彼が現実に引き戻される場面はどれも痛々しい。ムスリムである父が祈りに呼び寄せたり、盗撮していた女子たちに詰め寄られたりする描写から彼がいかにコミュニティの中で孤独感、閉塞感を抱えているかが伝わってくる。それは同時に彼が周りの社会に取り込まれていることの証明でもあるのだ。人は時に社会や歴史などを俯瞰的に見て当事者としての意識を忘れる。映画鑑賞などはそのいい例である。歴史を学ぶにしても今との接点を見つけないことにはこのような状況にすぐ陥る。そこに自分の影が見えない、もしくは見え難い故、神の視点で世界を見下ろしているような感覚に酔っ払う。だがふとした瞬間に自分も歴史や社会の一部であり、知らず知らずのうちにそこに取り込まれていることを自覚する。その瞬間、人はとてつもない無力感を感じて多かれ少なかれ苦しむことになる。彼は日頃からそのような叩き起こしを何度も食らう上にドローンを通してその究極に出会ってしまう。皮肉なことに彼が酔っ払うための道具であるドローンが彼を現実や環境を象徴するような事件へ誘ったのだ。事件の映像をネット上に公開しようとした彼はそれを隠そうとする警官3人、それを利用しようとする自称市長たちに追われる。血眼になって彼を追う警官たちは彼の心の拠り所であったドローンをあっさりと叩き壊す。最終的に映像が記録されたカードはステファンの活躍によって警官サイドにわたり、映像の流出は免れることになる。同僚二人と荒んだ環境に呆れ果てたステファンは敢えてカードを少年を撃った警官に渡し、彼の良心を揺さぶる。一件落着とも見えるかもしれないが、一人一人の中にタガが外されてしまった感覚がはっきりと残ってしまった。バズも当然例外ではない。今までもあった孤独感や警官、大人たちへの不信感はこれで明確なものとなる。そんな彼が終盤に起こる少年たちの暴動の中で取った行動。いや、取らなかった行動を思うと胸がいっぱいになってしまう。

最終盤、少年たちが暴動を起こし、警官や自称市長といった権力者層に反撃する場面の爆発力も当たり前ながら素晴らしい。そこで用いられるのが水鉄砲や花火など一見子どもらしい道具であることにも胸を打たれる。確かに武器自体は子どもらしいのだが、その威力や使い方、そして少年たちの目と動きには明確な憎しみと諦めが滲み出ている。少年たちにとっては警察も自称市長も自分たちを抑えつけ、理不尽な行いをする敵。抑圧が極限まで高まり、それが憎しみと諦めとして暴力に繋がった今、彼らを止められる物は何もない。駆けつけた自称市長を袋叩きにする少年たち。助けを求めるステファンを無視するバズ。呆然として見上げることしかできない警官たちを冷たく見下ろす暴動のカリスマとかしたイッサ。混沌と暴力の最中、物語は終わり、暗くなったスクリーンに監督の名が映る。脳裏に冒頭のシャンゼリゼ通りが蘇ってきた。

抜群に面白い物を見た満足感と描かれていた混乱が見終わったあと自分の身体を満たしていくを感じた。実に充実した映画体験になったと言えるだろう。