ペパーミントキャンディーから逃げるために

映画ペパーミントキャンディーを見て考えたこと、恐れたことについて書いてみる。自分とこの映画の主人公は状況も性格も違うので全てが超空論になってしまうが、書く必要性を感じたので書くしかないと思い、今にいたる。感想ではあるけども映画そのものの感想とは少し違うかもしれない。

まず見終わって自分の人生がこんな風になってしまわないか心配になった。この映画で描かれていた主人公の人生は自分が恐れているような形そのものだったのだ。光州事件がきっかけでずっと無理し続けることになってしまった彼の事を思うと胸が痛む。だがそれと同時に絶対にこうはならないぞという思いが胸に湧いてくる。ならないと決めていてもなってしまうのがこの物語の悲劇性なのかもしれないけれども……。

この映画の恐ろしい点は恐らく一番最後の場面以外、主人公が楽しげに自己を解放できている瞬間がないという所にあると思う。不倫相手とカーセックスに耽る時も、警官として捕まえた若者を拷問する時も、未成年のホステスに注意する時も、店の店員の下半身を弄る時もずっと無理しているように見えてくる(或いは無理した結果)のだ。自殺を試みる時、意識不明の元恋人の前から逃げ出す時、元恋人のフリをしてくれるセックスの相手の前で泣き出してしまう時なども彼が望んだ形で感情を表しているというより負のエネルギーが爆発しているだけのように見えてきてしまう。彼にとっては全てが自分を抑え込んで生きてきたことの延長でしかない。兵役中、他の兵たちに踏み潰された恋人からのペパーミントキャンディー。どうしても彼の人生と重ね合わせてしまう。きっかけは勿論光州事件での悲劇だったのだろう。だが彼自身の繊細さ、優しさが彼自身を破壊したようにも思えてくる。もし彼女が警官になった彼を訪ねてくれた時に彼女を遠ざけようとせず、葛藤や罪悪感について吐露することができたなら彼の心は守られたかもしれない。そうだったなら仮に経済的、社会的に追い込まれることになっても希望を持って生きることができたかもしれない。 ほんの少しの勇気と図々しさがあれば彼は20年に渡って自らをも欺き、元の自分を殺してまうことも無かったはずだ。
彼女の方も彼が繊細さ故に自分を追い込み、愛する人を遠ざけようとしていることに気づいていたのだろう。だからこそ死に際に彼を呼んで許しを与え、救おうとしたのかもしれない。だがその時はあまりにも遅かった。

光州事件、そして彼の人間性がその人生を破壊したことに加えて、繊細な者がそのままの姿で生きることが困難な空気感やイメージも共犯者かもしれないと自分は思った。繊細であるよりタフであることが大切とされる価値観が全体を支配する軍隊の中で彼は誰に頼ることもできないほど疲弊していたはずだ。そして愛する人を遠ざけ、そういった価値観に染まりながら生きていく以外の選択肢を見えなくしてしまったのかもしれない。彼が人に暴力を振るう姿は自分自身を痛めつけているようにも見えてくる。勿論人間なので本当の自分を完全に殺すことはできない。だがそれが受け入れられない価値観に囲まれながら生きていると本当の自分を望む形で表現することもできず、ついに自分を見失うことになってしまう。彼はきっとそのようなことを何度も何度も繰り返したのだろう。そして希望がついに絶たれ、そういった価値観からも見放されてしまった時、彼の口から出てきたのはただ帰りたいという言葉だった。明確な場所にではなく、自分が自分のままでいることができて、それを探す必要すら無かった20年前に。

彼のようにならない為にはどうすればいいのか。ここが自分にとっての問題点だ。まず言えるのは自分に対して図々しくあることだろう。そして愛し合える人、心から信じられる人を決して自ら離さないこと。大袈裟で臭い表現かもしれないがそれさえ守っていることができたなら、どんな苦しみの中でもある程度の幸せを保つことができると思う。自分は彼のように徴兵されることもないし、元からある程度の図々しい所があるので説教垂れるようなことはできないが、せめてこの映画を見て感じた悲しみやもどかしさを言葉にして自らを守って生きたいと思った次第である。正直自分はまだ彼らのように愛し愛されることができるような関係性を結べたことがないのでとりあえずそこまでは生き抜きたい。