若きウェルテルの悩みと村上春樹的(だと俺が思っている)優しさ

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

  • 作者:ゲーテ
  • 発売日: 1951/03/02
  • メディア: 文庫
俺タイプの人間(凄く大きなくくりの)としてはどこかで読まなければならないと何年も思っていた超名作文学「若きウェルテルの悩み」を遂に読んでみた。コロナ禍のせいで長らく近所の図書館が閉まってしまっていたようやく開いたので、行ってみたついでに長年の課題を済ませてしまったというわけである。ゲーテというと主に18世紀のドイツで活躍した作家というのもあってなかなか堅苦しいイメージがあった。彼の代表作でいうとファウストも人気だけど正直言ってなんとも読みにくそうである。30年くらい前に書かれた日本の文章ですら少し読み難く感じることもあるのに18世紀のドイツなんてハードルが高すぎる。題材的に惹かれはするがとにかく読みにくそう。本書を読み始める前の大体の印象だ。しかし主人公ウェルテルが恋に悩み自殺してしまうこと。彼の心を延々と追い続ける内容であることは知っていたのでいつか読まなくてはとは思っていた。映画で言うところのタクシードライバー、小説で言うところの「お目でたき人」などそういった種類の作品が大好物であり、自らにもその気があると自負している人間として引っかかるところはかなりありそうだし、なんならそれらの元ネタとでも言える名著を放っておく訳にはいかない。後回しにし続けていたが良い機会だと考え、思い切って図書館の文庫コーナーから引き抜いてみた。

まず基本的なことから。全体通して共感できる部分が多かったし、ウェルテルの発言に納得させられてしまうことも多かったのでなかなか楽しい読書体験になった。特にロッテに出会ってしまってからは描写一つ一つのキレがより増したようにも感じたし、熱量がとんでもないことになっていたのでとてもスリリングだった。訳の力もあるだろうが、言い回しや情景描写が一々面白くて共感しながらも所々笑いながら読めた。前述したような不安要素は殆ど当たらなかったように思える。勿論多少古く感じる表現もあるにはあるのだがそこを含めてなんとも粋でクセになってしまう。お陰様で普段は一冊本を読むのに結構時間をかけてしまうのに、約2日で読み終わることができた。元々予想していた通り、俺タイプの人間にフィットしやすい題材であること、表現の軽快さが相まってツルツルと脳に作品が滑り込んでくる。単純に波長が合う本を読むことの楽しさを再認識できた。ゲーテ自身の体験が元になっているというのもあって執筆自体も今回の読書体験と同じようにツルツルと進んで行ったのかもしれない。正直終盤、総合的に見たら他のこういった種類の作品、いわば社会不適合者物の方が自分にとって共感しやすかったかもしれないなぁと思った場面もあった。それもゲーテ自身の体験を元にしたものから仕方がないなと割り切って考えようとした瞬間、さらにひっくり返されてしまう。本作の真の特徴とも言えるような部分(勿論自分にとってだけれども)が終盤、はっきりと自分の前に浮き上がってきたのである。この作品が好きな理由はいろいろ上げることができるが一番はここかもしれないという部分がついにぶち当り、「これは俺にとって大切な一冊になるな」と認めざるをえない事態になってしまったのだ。

それは一体どういうものなのか。簡単に言うと編者(ゲーテ自身と言っても良いのかな?)の目線とウェルテルに対する距離感である。そのユニークさは物語が始まる前の序文からもはっきり表れている。この文で編者は「哀れなウェルテル」という表現を最初に持ってくる。そして「ウェルテルに共感してしまうような人がいるならばこの本を心の友して欲しい。運命の巡り合わせ、あるいは自らの落ち度によってそれを得られていないのなら」と語るのだ。小説全体の掴みとなる印象的な文だが、ここで編者のウェルテルに対するスタンスが明確に示されている。編者はウェルテル(編者をゲーテだとする場合、もう一人の自分ということになるのだが)の置かれた状況、そしてその帰結を心から哀れみ、彼に同情しているようだ。彼の決断を冷たく否定したり嘲ったりしているのではない。状況が状況なら自分も、そして誰しもがウェルテルのようになってしまうのではないかという立場なのである。本作の代表的なモチーフといえば勿論自殺だろう。ウェルテルは劇中で容赦無く自殺否定派を攻撃し、それが如何に否定し難い行為であるかを熱弁する。編者も基本的には自殺という行為に対して似たスタンスだと考えて良いだろう。だがそれを決して肯定してはいなそうなのが面白いところだと自分は思う。それはあくまで仕方ないことであり、我々が否定できないことというだけである。行なうべきことではない。本気追い込まれた人間が行き着いてしまうのがそれというだけであって、悲しいものであることに変わりはない。それは悲しいものだし、避けるべきものであるということを大前提にしながらも、そこに至らなかった幸運な者が至ってしまった不運な者を否定することができるのかという問いをこちらに投げかけてくる。似た状況にいたにも関わらず文学への情熱に救われ、死に至らずに済んだもう一人のウェルテルだからこそのどこか優しい目線である。このような編者の目線が終盤はっきりとした形で見えてくるという流れが自分はとてつもなく好きだったし、そこに思わず共感してしまった。

編者の目線はもっともな者だと自分は思う。おそらく編者と自分は「人が痛みを伴いながら生きていくこと、あるいは成長していくことそのものが命がけの行為であり、避けられない試練である」という考え方を共有しているはずだ。そしてそこから脱落してしまった者を否定する権利は誰も持っていないという考えも。そこで脱落してしまったのはもしかしたら自分かもしれない。今はまだ大丈夫なだけで明日には急に奈落の底へと落とされれしまうかもしれない。今自分がある意味まともでいられているのは、今までたまたま大丈夫だったという偶然の帰結でしかないのだ。そうではなかった人々を否定できる理由には全くならない。そのことを編者は深く理解していると思う。もし自分と世界を繋ぎ止めてくれる鎖がなかったらウェルテルは自分だったかもしれないし、ウェルテルにそれがあったらなら彼は自分だったのかもしれない。ウェルテルを他人だと言い切れる人は一人もいないはずだ。にも関わらず人はそこから脱落してしまった者を否定し、嘲り、教会すらも同じような態度をとる。じゃあ誰が彼らの魂のために祈るのか。編者、おそらくゲーテは自らが彼らになりかけた人間の代表として祈る者になることを選んだのだ。そして彼らの魂、つまり自分自身の痛みを「若きウェルテルの悩み」というとしてまとめ上げ、それを発表することで自分にとっての、そして危ない状況にある誰かにとってのこの世との強固な鎖を作り上げようとしたんだと自分は勝手に考えている。だから彼は序文で「この本を心の友にして欲しい」と述べたのではないだろうか。荒波に流されてしまった人々への祈り、そしてそれに流されそうな自分や危険に晒されている人物たちのための鎖。それが「若きウェルテルの悩み」という小説なのではないかと自分は思った。

さて、これと似たようなスタンスを繰り返し描いてきた作家が現代にもいると思う。言わずと知れた村上春樹である。彼は何度も荒波に飲まれてしまった人々と残された人々の関係を小説で描いてきた。そしていつでもその目線はどこか優しかった。大袈裟な表現かもしれないないが小説を使って人命救助を続けてきた人の代表だと自分は思っている。実をいうと先ほど語ったような考えを最初に自分に提示してくれたのは村上春樹の諸作なのだ。自分も知らず知らずの内に村上春樹の小説に助けられてきたうちの一人だと自負している。だから尊敬を込めてこれを「村上春樹的な優しさ」と呼ばせていただきたい。「若きウェルテルの悩み」をここまで今の自分が愛せるのは、本作が社会不適合者的濃厚さと「村上春樹的な優しさ」を同時に持った作品であるからに他ならないと思う。まさか本作がこんなところに行き着くとは読む前は全く想像できていなかったから未だに少し震えている。今の自分にとってかけがえのない作品となってしまった。ゲーテ村上春樹にこの場を借りてささやかなお礼を言いたい。