ASIAN KUNG-FU GENERATION「君という花」歌詞 感想 and 自己解釈

 京都に引っ越してから訳あってアジカンの音楽に触れる機会がどっと増えた。その第一歩となったのがファーストアルバムに収録されている「君という花」と言う曲だった。この曲の歌詞について何か書いてみたい気分になったので久しぶりにブログでもやってみようかと思う。特になんの証拠もない自分なりの解釈であること、繰り返される部分を省略していることは許してもらいたい。

 

youtu.be

 

 

 見え透いたフォームの絶望で空回る心がループした

  何気なく何となく進む淀みあるストーリー

 

 大切な人に対して持っていた何らかの思い上がり(見え透いたフォーム)が挫かれてしまった様子について唄っているのだと思う。それに伴う不全感、思い上がっていた自分に対する恥と失望が何度も何度も頭に浮かびループしてくるのだろう。

 そしてそんなことがあっても結局世界も現実も何となく前に進んでいってしまう。「淀みある」という部分が重要かなと個人的には感じる。上記のような悩みや苦しみ(淀み)はあるけれど結局世が止まることはないという無常ともいうべき切なさがこのワードによって強調されているのではないか。

 歌い方の話になるのだが「進む」と「淀み」の間に何の区切りも入れずに唄っていく部分がアジカン節といった趣でとても好きだ。一瞬「進むよ」と言うのかと耳が誤解してしまうようなあの感覚。クセになるし、真似したくなる。

 

 

  いつだって何かを失ってその度に僕らは今日を知る

  意味もなく何となく進む淀みあるストーリー

 

 失って、空回りしてようやく世界、現実の強固さとそこに対する無力感を覚えると言うことかと。「いつだって」「その度に」といったフレーズが入っていることがポイントだと思う。今までも同じような痛みを繰り返し味わってきたはずなのにまた似た状況に陥ってしまった、といった自嘲のニュアンスが加わっている。

 

 

  つまりたったそれ 砕け散っただけ

 

 自分の思い上がりも、それが挫かれた故の無力感、不全感も世界にとっては大した事ではないと言うこと。

 「ただそれだけ」と言わずに「ただそれ」で切っているのが素晴らしい(これもアジカン節と言えるだろう)。普段使う日本語からすると少し欠陥があるように感じざるを得ない表現だ。そこから生じる予想を裏切られたような感覚、あるいは違和感のお陰でやたら印象に残る。

 

 

  見抜かれた僕らの欲望で消えかかる心がループした

  何気なく何となく進む淀みあるストーリー

 

 「見抜かれた僕らの欲望」とは何となく全て(主に2人の関係、日常のことだろうが)うまく行き続けると思い込んでいたこと、或いはそう思い込もうとしていたことを指すのだと思う。当然そこには大切な人に何があってもきっと自分はちゃんと支えることができる、または救うことができるといった思い上がりも関係しているだろう。そういった感情が砕け散り、消えかかっている今もそれらは無力感や恥となって何度も心の中でループする。

 

 

  いつからか何かを失って隠してた本当の僕を知る

  意味もなく何となく進む淀みあるストーリー

 

 思い上がりが砕かれ、自分でも気付きたくなかった、隠していた自身の惨めさに向き合わざるを得なくなってしまったと言うことだろう。「隠してた」と言うフレーズのお陰でそこから逃げたかったからこそ語り部は愛とそれに基づく浅はかな自信に縋ろうとしたのかな、みたいなことまで想像させられる。

 あと少し前にも言おうと思ったのだがいかにも「ASIAN KUNG-FU GENERATION」と言う言葉が似合うようなサウンドの上で「今日を知る」「本当の僕を知る」と言ったワードが出てくると妙に求道者的、東洋思想的な趣が出てくるのも面白い。どの程度意識した上での効果なのかはわからないが恋愛と自意識の問題が東洋思想的な雰囲気(?)の中で語られることで非常にユニークな表現が出来上がっているように感じる。

 

 

  つまりただそれ 砕け散っただけ

  つまりただそれ 風に待っただけ

 

 

  君の目にただ光る雫 ああ、青天の霹靂

  痛み分けなら二等分さ そうさ、僕らの色

 

 自らへの過信が砕かれ、大切な人の涙の前にただ無力であるという事実に対し立ち尽くしている。それを悟った上で「何もできなかもしれないけどせめてその痛みを想い、共にそれを背負って生きたい」と覚悟を決めようとしているのだろう。

 

  白い息が切れるまで 飛ばして駆け抜けたあの道

  丘の上から見える町に咲いた 君という花

  また咲かすよ 君らしい色に

 

 白い息というと冬であったという事。冬の寒い日にも関わらず、外で騒ぎあった思い出が崩れ去った今も残っている。その時と全く同じとはいかないかもしれないけど、無力を悟った上で、いつかまた笑顔にして見せると誓いを立てる。

若きウェルテルの悩みと村上春樹的(だと俺が思っている)優しさ

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)

  • 作者:ゲーテ
  • 発売日: 1951/03/02
  • メディア: 文庫
俺タイプの人間(凄く大きなくくりの)としてはどこかで読まなければならないと何年も思っていた超名作文学「若きウェルテルの悩み」を遂に読んでみた。コロナ禍のせいで長らく近所の図書館が閉まってしまっていたようやく開いたので、行ってみたついでに長年の課題を済ませてしまったというわけである。ゲーテというと主に18世紀のドイツで活躍した作家というのもあってなかなか堅苦しいイメージがあった。彼の代表作でいうとファウストも人気だけど正直言ってなんとも読みにくそうである。30年くらい前に書かれた日本の文章ですら少し読み難く感じることもあるのに18世紀のドイツなんてハードルが高すぎる。題材的に惹かれはするがとにかく読みにくそう。本書を読み始める前の大体の印象だ。しかし主人公ウェルテルが恋に悩み自殺してしまうこと。彼の心を延々と追い続ける内容であることは知っていたのでいつか読まなくてはとは思っていた。映画で言うところのタクシードライバー、小説で言うところの「お目でたき人」などそういった種類の作品が大好物であり、自らにもその気があると自負している人間として引っかかるところはかなりありそうだし、なんならそれらの元ネタとでも言える名著を放っておく訳にはいかない。後回しにし続けていたが良い機会だと考え、思い切って図書館の文庫コーナーから引き抜いてみた。

まず基本的なことから。全体通して共感できる部分が多かったし、ウェルテルの発言に納得させられてしまうことも多かったのでなかなか楽しい読書体験になった。特にロッテに出会ってしまってからは描写一つ一つのキレがより増したようにも感じたし、熱量がとんでもないことになっていたのでとてもスリリングだった。訳の力もあるだろうが、言い回しや情景描写が一々面白くて共感しながらも所々笑いながら読めた。前述したような不安要素は殆ど当たらなかったように思える。勿論多少古く感じる表現もあるにはあるのだがそこを含めてなんとも粋でクセになってしまう。お陰様で普段は一冊本を読むのに結構時間をかけてしまうのに、約2日で読み終わることができた。元々予想していた通り、俺タイプの人間にフィットしやすい題材であること、表現の軽快さが相まってツルツルと脳に作品が滑り込んでくる。単純に波長が合う本を読むことの楽しさを再認識できた。ゲーテ自身の体験が元になっているというのもあって執筆自体も今回の読書体験と同じようにツルツルと進んで行ったのかもしれない。正直終盤、総合的に見たら他のこういった種類の作品、いわば社会不適合者物の方が自分にとって共感しやすかったかもしれないなぁと思った場面もあった。それもゲーテ自身の体験を元にしたものから仕方がないなと割り切って考えようとした瞬間、さらにひっくり返されてしまう。本作の真の特徴とも言えるような部分(勿論自分にとってだけれども)が終盤、はっきりと自分の前に浮き上がってきたのである。この作品が好きな理由はいろいろ上げることができるが一番はここかもしれないという部分がついにぶち当り、「これは俺にとって大切な一冊になるな」と認めざるをえない事態になってしまったのだ。

それは一体どういうものなのか。簡単に言うと編者(ゲーテ自身と言っても良いのかな?)の目線とウェルテルに対する距離感である。そのユニークさは物語が始まる前の序文からもはっきり表れている。この文で編者は「哀れなウェルテル」という表現を最初に持ってくる。そして「ウェルテルに共感してしまうような人がいるならばこの本を心の友して欲しい。運命の巡り合わせ、あるいは自らの落ち度によってそれを得られていないのなら」と語るのだ。小説全体の掴みとなる印象的な文だが、ここで編者のウェルテルに対するスタンスが明確に示されている。編者はウェルテル(編者をゲーテだとする場合、もう一人の自分ということになるのだが)の置かれた状況、そしてその帰結を心から哀れみ、彼に同情しているようだ。彼の決断を冷たく否定したり嘲ったりしているのではない。状況が状況なら自分も、そして誰しもがウェルテルのようになってしまうのではないかという立場なのである。本作の代表的なモチーフといえば勿論自殺だろう。ウェルテルは劇中で容赦無く自殺否定派を攻撃し、それが如何に否定し難い行為であるかを熱弁する。編者も基本的には自殺という行為に対して似たスタンスだと考えて良いだろう。だがそれを決して肯定してはいなそうなのが面白いところだと自分は思う。それはあくまで仕方ないことであり、我々が否定できないことというだけである。行なうべきことではない。本気追い込まれた人間が行き着いてしまうのがそれというだけであって、悲しいものであることに変わりはない。それは悲しいものだし、避けるべきものであるということを大前提にしながらも、そこに至らなかった幸運な者が至ってしまった不運な者を否定することができるのかという問いをこちらに投げかけてくる。似た状況にいたにも関わらず文学への情熱に救われ、死に至らずに済んだもう一人のウェルテルだからこそのどこか優しい目線である。このような編者の目線が終盤はっきりとした形で見えてくるという流れが自分はとてつもなく好きだったし、そこに思わず共感してしまった。

編者の目線はもっともな者だと自分は思う。おそらく編者と自分は「人が痛みを伴いながら生きていくこと、あるいは成長していくことそのものが命がけの行為であり、避けられない試練である」という考え方を共有しているはずだ。そしてそこから脱落してしまった者を否定する権利は誰も持っていないという考えも。そこで脱落してしまったのはもしかしたら自分かもしれない。今はまだ大丈夫なだけで明日には急に奈落の底へと落とされれしまうかもしれない。今自分がある意味まともでいられているのは、今までたまたま大丈夫だったという偶然の帰結でしかないのだ。そうではなかった人々を否定できる理由には全くならない。そのことを編者は深く理解していると思う。もし自分と世界を繋ぎ止めてくれる鎖がなかったらウェルテルは自分だったかもしれないし、ウェルテルにそれがあったらなら彼は自分だったのかもしれない。ウェルテルを他人だと言い切れる人は一人もいないはずだ。にも関わらず人はそこから脱落してしまった者を否定し、嘲り、教会すらも同じような態度をとる。じゃあ誰が彼らの魂のために祈るのか。編者、おそらくゲーテは自らが彼らになりかけた人間の代表として祈る者になることを選んだのだ。そして彼らの魂、つまり自分自身の痛みを「若きウェルテルの悩み」というとしてまとめ上げ、それを発表することで自分にとっての、そして危ない状況にある誰かにとってのこの世との強固な鎖を作り上げようとしたんだと自分は勝手に考えている。だから彼は序文で「この本を心の友にして欲しい」と述べたのではないだろうか。荒波に流されてしまった人々への祈り、そしてそれに流されそうな自分や危険に晒されている人物たちのための鎖。それが「若きウェルテルの悩み」という小説なのではないかと自分は思った。

さて、これと似たようなスタンスを繰り返し描いてきた作家が現代にもいると思う。言わずと知れた村上春樹である。彼は何度も荒波に飲まれてしまった人々と残された人々の関係を小説で描いてきた。そしていつでもその目線はどこか優しかった。大袈裟な表現かもしれないないが小説を使って人命救助を続けてきた人の代表だと自分は思っている。実をいうと先ほど語ったような考えを最初に自分に提示してくれたのは村上春樹の諸作なのだ。自分も知らず知らずの内に村上春樹の小説に助けられてきたうちの一人だと自負している。だから尊敬を込めてこれを「村上春樹的な優しさ」と呼ばせていただきたい。「若きウェルテルの悩み」をここまで今の自分が愛せるのは、本作が社会不適合者的濃厚さと「村上春樹的な優しさ」を同時に持った作品であるからに他ならないと思う。まさか本作がこんなところに行き着くとは読む前は全く想像できていなかったから未だに少し震えている。今の自分にとってかけがえのない作品となってしまった。ゲーテ村上春樹にこの場を借りてささやかなお礼を言いたい。

トムアットザファーム感想 サスペンスの名人

グザヴィエ ドランのトムアットザファームを今更ながら見た。いやはや、恐ろしい映画だったぜ。ドラン作品はこれ含めて4本しか見れてないのだが、その内二本を劇場で見たこともあって結構自分の中で思い入れが深い監督の一人だ(生意気な意見かもしれないけどそれが正直な思い)。
mammyは題材そのものから強いシンパシーを感じたし、英語と日本語以外で作られた作品を劇場で見たのは多分あれが初めてだったと思う。美しい映像と画面サイズを使った演出、そして音楽の使い方にも大きな衝撃を受けた。中学一年生の自分にとっては映画に登場する何もかもがフレッシュに見えた(それが故のもどかしさも今からすれば貴重な感覚だった)。
たかが世界の終わりもかなり好きだった。映画のほとんどが家族喧嘩という何とも居心地の悪い映画(それこそがドランの好きなところなんだけれども)なのだが、その喧嘩をする大物役者一人一人のとてつもなく繊細で美しくすらある表情に思わず惹きつけられたしまった。それに加え恋のマイアヒをあそこまでかっこよく使うなんて!!という衝撃もあり、こちらも自分にとって忘れらない映画体験となったのだ。

さてここに来てのトムアットザファーム鑑賞なのだが、サスペンスの名人(あるいは気まずい描写の達人)としてのドラン大爆発といった感じで痺れるほど刺激的な感覚に満ち溢れた映画体験となった。吐き気を催してしまうほどに。先程も少し触れたのだがドランが持つ協力な武器、それはサスペンス的な気まずい空気感の描き方だと思う(勿論、映像と音楽の混ぜ方も最高of最高なのだがそれについては別の機会に語りたい)。胸騒ぎの恋人の失恋シーンなどを見て頂ければわかるのだが、人と人の関係の崩壊、あるいは心が軋み切って今にも捻じ曲がってしまいそうな瞬間の描き方があまりにも強烈なのである。映像の美しさや音楽の使い方にも特徴があるので、そういった面の心地よさをメインに楽しむべきなのかなと思っていたら飛んでもない所を引き摺り回される。それこそがドラン作品の特徴だと自分は勝手に考えている。イメージはかなり違うかもしれないが緊張感の描き方という側面でいうとクリント イーストウッドやシリアスモードのスピルバーグと通じるものがあるよなぁと度々考えてしまう。イーストウッドミスティックリバーアメリカンスナイパー、スピルバーグミュンヘン等で多用されていたような何とも容赦無く、無慈悲な緊張感。ドランの作品にはそれらが我々を激しく突き刺してくる瞬間が必ず何箇所かはある。
トムアットザファームはそれがずっと続いていくような映画だ。なので吐きそうになるほど息が詰まったし、身体が震えて止まらなかった。主人公トムと彼の死んだ恋人の兄フランシスとの間に流れる言い尽くせないような気持ち悪い雰囲気、そして暴力とその示唆。憎しみや後悔だけでなく、そこに愛情や執着心をも織り交ぜて来るから気持ち悪くて仕方ない(めちゃくちゃ良い意味で)。一体何があったらこんな映画撮ろうと思うのか。撮ろうと思ったとしてどうやってこれを完成させるのか。ドランという人はどれほど繊細かつ強靭にできているのだろう。それを想像すると映画の雰囲気とも似た何とも言えない恐ろしさに襲われる。
本作はスリービルボード、ファーゴ、ノーカントリー等といった田舎映画としても凄まじい。田舎に溢れる閉塞感、保守的な理想像そのものが人の心ひたすらに食い破っている様をこれでもかというほどに描き出してくるのだ。自分としては最低のクソ野郎にしか見えなかったフランシスもそういった価値観の奴隷であり、暴力的である事しか知らない哀れな人間として描かれている。そんなフランシスにUSAと大きく書かれた服を着せる辺り、攻めまくってて面白い。どの場面にも暴力性や閉塞感、あるいは強烈な風刺を醸し出すアイテムが配置されていて終盤までとにかく息苦しいのである。先程の服、牛の死体、アイロン、瓶ビール等見ていて震えだしてしまうようなアイテムが次々と登場する。それら一つ一つの使い方を見ていると思わず、「ドラン先輩、何てやつだ……。」と呟きたくなってしまうほどである。
あらゆるテーマを扱っているはずだし、ドラン本人が意識したのは違うことなのかもしれないが自分には「典型的なマチズム、或いはマチズム的なアメリカ人男性像、そしてカトリック的な価値観への怒りや憧れや失望、それらとの別れ」が刻印されているように感じた。正直、フランシスがどうしての忌々しいヴィランに見えてしまう辺り、ドランと自分は物の見え方が大きく異なっているんだなと感じざるを得なかったわけだが、最後にたむろする若者たちを何とも悲しそうな目で見つめるトムの姿にははっきりシンパシーを抱いた。総合的に見た時、やっぱりこの監督の作品にはどこかハマるものがあると思う。

そんなドランが撮るアメリカ映画とはどんな物なのだろう。ジョンfドノヴァンの死を見るのがより楽しみになってきた。

トム・アット・ザ・ファーム(字幕版)

トム・アット・ザ・ファーム(字幕版)

  • 発売日: 2015/05/02
  • メディア: Prime Video

ペパーミントキャンディーから逃げるために

映画ペパーミントキャンディーを見て考えたこと、恐れたことについて書いてみる。自分とこの映画の主人公は状況も性格も違うので全てが超空論になってしまうが、書く必要性を感じたので書くしかないと思い、今にいたる。感想ではあるけども映画そのものの感想とは少し違うかもしれない。

まず見終わって自分の人生がこんな風になってしまわないか心配になった。この映画で描かれていた主人公の人生は自分が恐れているような形そのものだったのだ。光州事件がきっかけでずっと無理し続けることになってしまった彼の事を思うと胸が痛む。だがそれと同時に絶対にこうはならないぞという思いが胸に湧いてくる。ならないと決めていてもなってしまうのがこの物語の悲劇性なのかもしれないけれども……。

この映画の恐ろしい点は恐らく一番最後の場面以外、主人公が楽しげに自己を解放できている瞬間がないという所にあると思う。不倫相手とカーセックスに耽る時も、警官として捕まえた若者を拷問する時も、未成年のホステスに注意する時も、店の店員の下半身を弄る時もずっと無理しているように見えてくる(或いは無理した結果)のだ。自殺を試みる時、意識不明の元恋人の前から逃げ出す時、元恋人のフリをしてくれるセックスの相手の前で泣き出してしまう時なども彼が望んだ形で感情を表しているというより負のエネルギーが爆発しているだけのように見えてきてしまう。彼にとっては全てが自分を抑え込んで生きてきたことの延長でしかない。兵役中、他の兵たちに踏み潰された恋人からのペパーミントキャンディー。どうしても彼の人生と重ね合わせてしまう。きっかけは勿論光州事件での悲劇だったのだろう。だが彼自身の繊細さ、優しさが彼自身を破壊したようにも思えてくる。もし彼女が警官になった彼を訪ねてくれた時に彼女を遠ざけようとせず、葛藤や罪悪感について吐露することができたなら彼の心は守られたかもしれない。そうだったなら仮に経済的、社会的に追い込まれることになっても希望を持って生きることができたかもしれない。 ほんの少しの勇気と図々しさがあれば彼は20年に渡って自らをも欺き、元の自分を殺してまうことも無かったはずだ。
彼女の方も彼が繊細さ故に自分を追い込み、愛する人を遠ざけようとしていることに気づいていたのだろう。だからこそ死に際に彼を呼んで許しを与え、救おうとしたのかもしれない。だがその時はあまりにも遅かった。

光州事件、そして彼の人間性がその人生を破壊したことに加えて、繊細な者がそのままの姿で生きることが困難な空気感やイメージも共犯者かもしれないと自分は思った。繊細であるよりタフであることが大切とされる価値観が全体を支配する軍隊の中で彼は誰に頼ることもできないほど疲弊していたはずだ。そして愛する人を遠ざけ、そういった価値観に染まりながら生きていく以外の選択肢を見えなくしてしまったのかもしれない。彼が人に暴力を振るう姿は自分自身を痛めつけているようにも見えてくる。勿論人間なので本当の自分を完全に殺すことはできない。だがそれが受け入れられない価値観に囲まれながら生きていると本当の自分を望む形で表現することもできず、ついに自分を見失うことになってしまう。彼はきっとそのようなことを何度も何度も繰り返したのだろう。そして希望がついに絶たれ、そういった価値観からも見放されてしまった時、彼の口から出てきたのはただ帰りたいという言葉だった。明確な場所にではなく、自分が自分のままでいることができて、それを探す必要すら無かった20年前に。

彼のようにならない為にはどうすればいいのか。ここが自分にとっての問題点だ。まず言えるのは自分に対して図々しくあることだろう。そして愛し合える人、心から信じられる人を決して自ら離さないこと。大袈裟で臭い表現かもしれないがそれさえ守っていることができたなら、どんな苦しみの中でもある程度の幸せを保つことができると思う。自分は彼のように徴兵されることもないし、元からある程度の図々しい所があるので説教垂れるようなことはできないが、せめてこの映画を見て感じた悲しみやもどかしさを言葉にして自らを守って生きたいと思った次第である。正直自分はまだ彼らのように愛し愛されることができるような関係性を結べたことがないのでとりあえずそこまでは生き抜きたい。

ペパーミントキャンディーから逃げるために

映画ペパーミントキャンディーを見て考えたこと、恐れたことについて書いてみる。自分とこの映画の主人公は状況も性格も違うので全てが超空論になってしまうが、書く必要性を感じたので書くしかないと思い、今にいたる。感想ではあるけども映画そのものの感想とは少し違うかもしれない。

まず見終わって自分の人生がこんな風になってしまわないか心配になった。この映画で描かれていた主人公の人生は自分が恐れているような形そのものだったのだ。光州事件がきっかけでずっと無理し続けることになってしまった彼の事を思うと胸が痛む。だがそれと同時に絶対にこうはならないぞという思いが胸に湧いてくる。ならないと決めていてもなってしまうのがこの物語の悲劇性なのかもしれないけれども……。

この映画の恐ろしい点は恐らく一番最後の場面以外、主人公が楽しげに自己を解放できている瞬間がないという所にあると思う。不倫相手とカーセックスに耽る時も、警官として捕まえた若者を拷問する時も、未成年のホステスに注意する時も、店の店員の下半身を弄る時もずっと無理しているように見えてくる(或いは無理した結果)のだ。自殺を試みる時、意識不明の元恋人の前から逃げ出す時、元恋人のフリをしてくれるセックスの相手の前で泣き出してしまう時なども彼が望んだ形で感情を表しているというより負のエネルギーが爆発しているだけのように見えてきてしまう。彼にとっては全てが自分を抑え込んで生きてきたことの延長でしかない。兵役中、他の兵たちに踏み潰された恋人からのペパーミントキャンディー。どうしても彼の人生と重ね合わせてしまう。きっかけは勿論光州事件での悲劇だったのだろう。だが彼自身の繊細さ、優しさが彼自身を破壊したようにも思えてくる。もし彼女が警官になった彼を訪ねてくれた時に彼女を遠ざけようとせず、葛藤や罪悪感について吐露することができたなら彼の心は守られたかもしれない。そうだったなら仮に経済的、社会的に追い込まれることになっても希望を持って生きることができたかもしれない。 ほんの少しの勇気と図々しさがあれば彼は20年に渡って自らをも欺き、元の自分を殺してまうことも無かったはずだ。
彼女の方も彼が繊細さ故に自分を追い込み、愛する人を遠ざけようとしていることに気づいていたのだろう。だからこそ死に際に彼を呼んで許しを与え、救おうとしたのかもしれない。だがその時はあまりにも遅かった。

光州事件、そして彼の人間性がその人生を破壊したことに加えて、繊細な者がそのままの姿で生きることが困難な空気感やイメージも共犯者かもしれないと自分は思った。繊細であるよりタフであることが大切とされる価値観が全体を支配する軍隊の中で彼は誰に頼ることもできないほど疲弊していたはずだ。そして愛する人を遠ざけ、そういった価値観に染まりながら生きていく以外の選択肢を見えなくしてしまったのかもしれない。彼が人に暴力を振るう姿は自分自身を痛めつけているようにも見えてくる。勿論人間なので本当の自分を完全に殺すことはできない。だがそれが受け入れられない価値観に囲まれながら生きていると本当の自分を望む形で表現することもできず、ついに自分を見失うことになってしまう。彼はきっとそのようなことを何度も何度も繰り返したのだろう。そして希望がついに絶たれ、そういった価値観からも見放されてしまった時、彼の口から出てきたのはただ帰りたいという言葉だった。明確な場所にではなく、自分が自分のままでいることができて、それを探す必要すら無かった20年前に。

彼のようにならない為にはどうすればいいのか。ここが自分にとっての問題点だ。まず言えるのは自分に対して図々しくあることだろう。そして愛し合える人、心から信じられる人を決して自ら離さないこと。大袈裟で臭い表現かもしれないがそれさえ守っていることができたなら、どんな苦しみの中でもある程度の幸せを保つことができると思う。自分は彼のように徴兵されることもないし、元からある程度の図々しい所があるので説教垂れるようなことはできないが、せめてこの映画を見て感じた悲しみやもどかしさを言葉にして自らを守って生きたいと思った次第である。正直自分はまだ彼らのように愛し愛されることができるような関係性を結べたことがないのでとりあえずそこまでは生き抜きたい。

私が、生きる肌 感想

私が、生きる肌(字幕版)

私が、生きる肌(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/30
  • メディア: Prime Video
とんでもない映画を見てしまったという衝撃が身体を何度も巡った。展開そのものに大きな変化によってこちらに衝撃を与えてくる作品、鮮烈な映像と音楽によりこちらの脳に染み付いてくる作品。それらも素晴らしいし大好きだ。しかし正直そういった作品になら今までも何度も出会ってきた。それら一本一本にも勿論特筆すべき個性があり、僕にとって一つとしてかけることが許されないものである。だがその映画自体を見る姿勢、あるいは楽しみ方そのものが見ている途中で大きく変化してしまうような体験はそうそう無い。「私が、生きる肌」は勿論先程書いたような展開による衝撃、鮮烈な映像と音楽も多分に含んでいる作品であるし、それだけで圧倒的な魅力を放っている。しかし本作が真に特徴的なのは作品を見始めた時には予想もしていなかった種類の感動に我々を誘ってくれる点であると僕は思った。

最初に僕がこの作品に興味を持ったのはおそらく小学生6年生の頃。当時、映画にはまり出していた僕は「私が、生きる肌」というタイトルとそのポスターから漂う異様な生々しさにショックを受けた。そしてこれはきっとひどく恐ろしく、見た物に多かれ少なかれ何らかのダメージを与える映画なのだろうと思った。今の自分には早すぎるのだろうと。とはいえ興味はあったので予告を見てみた。ベットリした質感の絵の具がふんだんに使われた油絵のように鮮烈な色使い、閉じ込められているであろう女性の監視映像を確認する中年男をまるで動物園でライオンを見る客のように捉えた気味の悪い演出、激しく掻き鳴らされるバイオリンような弦楽器の音、役者たちの鬼気迫る表情。本編の刺激をかなり抑えているはずである予告だけで十分、当時の僕には刺激的だった。怖気付いた僕はいろんな映画を見たりいろんな体験をしたりしてからこの映画を見ればいいと判断して本作の存在を心の奥にしまっておくことにした。今思えばあれは正解だったのだろう。それから7年近く経ってそれなりに成長したはずの今の僕から見ても本作は十二分に刺激的だったのだから。でもそこにあったのは僕が予想していた種類の刺激だけではなかった。

見る前からアントニオ バンデラス演じる医師が利便性の高い肌を作り出し、それを使って失った妻を取り戻そうとするという筋は知っていた。そこから失った者への歪んだ愛ゆえに禁忌を犯してしまう人間の心を炙り出すような内容になるのかなと何となくの予想を作り上げた。要はより碇ゲンドウを完全に主役に置いたエヴァンゲリオンのような映画なのかなと。その予想は一応あったていた。自分が想像していた以上にエクストリームな碇ゲンドウの姿がそこにあったわけだ(エヴァンゲリオン碇ゲンドウも超エクストリームなのだし、やっていることの規模の大きさだと比べ物にならないのだが)。激しいレイプ描写や美しくも気味が悪い演出の数々に圧倒されながらも映画として自分の予想を超えるような事は起きないだろうと思っていた。序盤までは。自分が先程一応と付けたのはその碇ゲンドウ要素がこの映画の半分ほどでしかなかったからである。残りの半分は全く予想していないような物だった。

中盤、物語が別のパートに移る。そこからこの物語、いやこの映画は誰にも先が読めないような軌道を描き始めるのだ。物語ではなく映画と書いたのにもわけがある。普通、映画や小説などを見る時、観客は何となくその作品のスタイルを予想したり、早いうちに読み取ったりして、それにあった楽しみを受容する準備をするはずだ。多くの場合、それは正しい行動であり、より深く作品の世界に入り込んでいくはずの有効な作戦だと僕は思う。どんなに大きな展開が物語上で起こったとしても楽しみ方やそれの受容の仕方にまで変化を生む事は殆どない。だからと言ってその作品がつまらないということは決してないし、そうする事によって見る側を置いていってしまう危険性もあるわけだから当たり前である。それに同じ映画の中で見る側をそこまで翻弄するというのはきっと至難の技なのだろう。だが本作は大胆にそれをやってのける。しかもその変化が起きる前の映画の魅力やテーマ性を持ったままの状態で。

本作の一番凄い点はそこかもしれない。死者への歪んだ愛情、神への挑戦とも取れるような禁忌、嫉妬と暴力に塗れた兄弟関係とそれを近くで見る母などそれ単体で十分ヘビーなテーマを前半で提示し、これでもかというほど鮮烈に描いた上で「いくら追い込まれ変化を強制されたとしても決して奪えない人間の尊厳と意思」という一見それまでとは相容れなそうなテーマに着地するのである。こんな映画、他にあるだろうか。この映画を見終わった時、舐達麻のdelta9kidの「時間は奪えど、心は奪えない」という歌詞を思い出した。まさかこの映画でこんなタイプの感動を味わう事になるとは!

ペドロ アルモドバル、なんて凄い監督なんだろう。

私が、生きる肌 感想

私が、生きる肌(字幕版)

私が、生きる肌(字幕版)

  • 発売日: 2017/06/30
  • メディア: Prime Video
とんでもない映画を見てしまったという衝撃が身体を何度も巡った。展開そのものに大きな変化によってこちらに衝撃を与えてくる作品、鮮烈な映像と音楽によりこちらの脳に染み付いてくる作品。それらも素晴らしいし大好きだ。しかし正直そういった作品になら今までも何度も出会ってきた。それら一本一本にも勿論特筆すべき個性があり、僕にとって一つとしてかけることが許されないものである。だがその映画自体を見る姿勢、あるいは楽しみ方そのものが見ている途中で大きく変化してしまうような体験はそうそう無い。「私が、生きる肌」は勿論先程書いたような展開による衝撃、鮮烈な映像と音楽も多分に含んでいる作品であるし、それだけで圧倒的な魅力を放っている。しかし本作が真に特徴的なのは作品を見始めた時には予想もしていなかった種類の感動に我々を誘ってくれる点であると僕は思った。

最初に僕がこの作品に興味を持ったのはおそらく小学生6年生の頃。当時、映画にはまり出していた僕は「私が、生きる肌」というタイトルとそのポスターから漂う異様な生々しさにショックを受けた。そしてこれはきっとひどく恐ろしく、見た物に多かれ少なかれ何らかのダメージを与える映画なのだろうと思った。今の自分には早すぎるのだろうと。とはいえ興味はあったので予告を見てみた。ベットリした質感の絵の具がふんだんに使われた油絵のように鮮烈な色使い、閉じ込められているであろう女性の監視映像を確認する中年男をまるで動物園でライオンを見る客のように捉えた気味の悪い演出、激しく掻き鳴らされるバイオリンような弦楽器の音、役者たちの鬼気迫る表情。本編の刺激をかなり抑えているはずである予告だけで十分、当時の僕には刺激的だった。怖気付いた僕はいろんな映画を見たりいろんな体験をしたりしてからこの映画を見ればいいと判断して本作の存在を心の奥にしまっておくことにした。今思えばあれは正解だったのだろう。それから7年近く経ってそれなりに成長したはずの今の僕から見ても本作は十二分に刺激的だったのだから。でもそこにあったのは僕が予想していた種類の刺激だけではなかった。

見る前からアントニオ バンデラス演じる医師が利便性の高い肌を作り出し、それを使って失った妻を取り戻そうとするという筋は知っていた。そこから失った者への歪んだ愛ゆえに禁忌を犯してしまう人間の心を炙り出すような内容になるのかなと何となくの予想を作り上げた。要はより碇ゲンドウを完全に主役に置いたエヴァンゲリオンのような映画なのかなと。その予想は一応あったていた。自分が想像していた以上にエクストリームな碇ゲンドウの姿がそこにあったわけだ(エヴァンゲリオン碇ゲンドウも超エクストリームなのだし、やっていることの規模の大きさだと比べ物にならないのだが)。激しいレイプ描写や美しくも気味が悪い演出の数々に圧倒されながらも映画として自分の予想を超えるような事は起きないだろうと思っていた。序盤までは。自分が先程一応と付けたのはその碇ゲンドウ要素がこの映画の半分ほどでしかなかったからである。残りの半分は全く予想していないような物だった。

中盤、物語が別のパートに移る。そこからこの物語、いやこの映画は誰にも先が読めないような軌道を描き始めるのだ。物語ではなく映画と書いたのにもわけがある。普通、映画や小説などを見る時、観客は何となくその作品のスタイルを予想したり、早いうちに読み取ったりして、それにあった楽しみを受容する準備をするはずだ。多くの場合、それは正しい行動であり、より深く作品の世界に入り込んでいくはずの有効な作戦だと僕は思う。どんなに大きな展開が物語上で起こったとしても楽しみ方やそれの受容の仕方にまで変化を生む事は殆どない。だからと言ってその作品がつまらないということは決してないし、そうする事によって見る側を置いていってしまう危険性もあるわけだから当たり前である。それに同じ映画の中で見る側をそこまで翻弄するというのはきっと至難の技なのだろう。だが本作は大胆にそれをやってのける。しかもその変化が起きる前の映画の魅力やテーマ性を持ったままの状態で。

本作の一番凄い点はそこかもしれない。死者への歪んだ愛情、神への挑戦とも取れるような禁忌、嫉妬と暴力に塗れた兄弟関係とそれを近くで見る母などそれ単体で十分ヘビーなテーマを前半で提示し、これでもかというほど鮮烈に描いた上で「いくら追い込まれ変化を強制されたとしても決して奪えない人間の尊厳と意思」という一見それまでとは相容れなそうなテーマに着地するのである。こんな映画、他にあるだろうか。この映画を見終わった時、舐達麻のdelta9kidの「時間は奪えど、心は奪えない」という歌詞を思い出した。まさかこの映画でこんなタイプの感動を味わう事になるとは!

ペドロ アルモドバル、なんて凄い監督なんだろう。